イエスキリストが、十字架の死から復活していなかったら、キリスト教は、虚しい宗教になってしまう?
私の尊敬する、高原剛一郎先生のメッセージを引用させていただきます。 今は亡き毒舌落語家に、立川談志さんがいます。 彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しない人でした。 著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。 「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよくおっしゃっていました。 しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのでしょう。それは日本の敗戦だったのです。 子供のころ談志は、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていたのです。 なのに日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。 まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目でその耳で、地獄を経験するのです。 母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」というが交差する中を必死で走ったというのです。 信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかった彼は、 それからは疑り深い人間になったとおっしゃるのです。 復活が事実と考えることが合理的 イエスこそ人となった神であり、全能の救い主と信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もう頭が混乱していたに違いないのです。 彼らは意気消沈し、また同時に当局は次に自分たちのいのちを取りに来るかもしれない、と恐れたのです。 そこへ両手両足に釘穴を残すイエス・キリストが、新しい体で姿を見せ「平安あれ」と語りかけて来られたのです。 自分の目で見、耳で聞き、手でさわれる方として弟子たちは再会を果たしました。 生前、語られていた言葉をそのときに思い出したのです。イエスは十字架で殺され、墓に葬られてから、よみがえる、と宣言されていたからです。 目の前で復活したイエスと語り合うことで、彼らは説得され、確信を持ち、勇気を得たのです。 だからこそ彼らは、この復活したイエス・キリストを宣べ伝えて行ったのです。 私はこのイエス・キリストの復活を信じています。というのは、それが一番合理的だからです。 どん底の状態にいた弟子たちが、殉教をものともせずに復活を宣べ伝えるように変わった理由を、復活のイエスとの再会以外に説明を見いだすことができないからです。 落ち込むほど喜びが大きくなる 昨...