私 勝浦儀彦 元横浜市立高校教諭は、精神病患者でした。しかし、主イエス様が、癒してくださり、職場高校に奇跡的に復帰できました!イエスキリストは、2020年にも、生きて働いておられます。「イエス様、祈りに応えてください!」と祈ってみてください❤️



死線を越えて(平成バージョン


闇が私を覆ったのは、2008年10月ごろであった。

それからの一年半私の全てが凍結した。

仕事は勿論人間としての心も思考も全てが壊れた。

妻の精神の限界が来た時、
私は県立の精神病院にて医療保護下の入院を言い渡された。

私がお世話になった、ハーバード卒の中村医師↓
私の意志には関係なくこの国の法律の下に拘束されるというものであった。
勿論 私はこの時の恐怖以外には何も理解できる状態にはなく、強制入院させれられた。

私は自分が病気であることを自覚できない状態であった。
診断名は精神病性うつ病であった。  

妻は担当医(ハーバード大卒の精神科医)より
「一生治りません。死ぬまで付き合っていく病です」と言われ言葉を失ったそうである。

私はうつの症状が妄想を招くほどまでになっており、このころの記憶はほとんどない。
最初の入院は多くの祈りに支られ、奇跡的なほどに回復し、翌年の2月に退院を迎えた。
この期間、妻がどのように生きていたのか私はほとんど知ずまた記憶にない。
この空白の期間を妻や他の愛する兄弟姉妹の話しから私は埋めてみたいと思う

私の妻がこの期間は主人公である。
なぜなら記憶を持って生きていたからだ。

妻は今でもよく言う言葉がある。
「私が信仰を捨てないで重たい一日一日を越えられたのは私の信仰では絶対にない!
あの時、母のように私を憐れみ心 から私が幸せになるように思って切実に祈り、
聖書の言葉と知恵を下さった、ほなみさんがおられたから、耐えられたのだと思う。」
私が当時通っていた横浜 グレイスバイブルチャーチの長老夫妻が、
献身的に妻を守って下さったことを後 になって理解した。
母親が子にみ言葉の離乳食をスプーンで与えているような光景が私には見えてきた。
主が私達のためにあらゆる方々の心に語り私達を覚えるようにしてくださったのである。

毎日、病弱な妻が精神病院に見舞ってくれた。この種の病院は町中にはない。
 木々に囲まれた郊外にある。
バスで通い、あの長い坂をキャスターに1ダースの水や私の衣類を積み登ることは、
どれほどの労力であったかと思う。

しかし私には心と頭を縛られていて当時、妻にかけてあげる言葉がなかった。
もっと正直に言うなら何も考えられない、 感じない重度の患者の日々の状態であった。
長老婦人は毎日、妻を気遣い電話をし、疲れて病院から帰る妻に美味しい食事を運んで下さったそうだ。
そしてスコット牧師が妻の労を労うため1ダースの水をもって来て下さった。
私はきっとこんな素晴らしい愛の話しを妻が一生懸命に語るのを病室で聞いたのだと
思う。残念だが記憶にはない。

教会では熱く私のため、また妻のために執り成しをしてくれていた。また遠方まで見舞いに来てくれた友人達がいた。 入院中、私を大いに励ましてくれたことがあった。

スコット牧師が、病室にて聖餐式を私達夫婦のために行ってくれたことだ。
不思議とこの時のことはよく覚えている。精神病院が恐ろしくて仕方なかった私にとって先生は私をここから連れ出し救ってくれるイエス様のように思ったからだ。
話したことは勿論記憶にない。

だが 先生のあの愛情に満ちて涙で赤く染まった目が私の心に何か届けてくれたのだと思う。私達夫婦はスコット牧師ほど優しいキリストの眼差しを持つ人をほかに見 たことがないという同じ意見を持っている。
これが、今私が書けるわずかな時間の断片である。  

退院後全てが順調に行くと誰もが信じ祈っていた。
しかし、本当の闇と死の世界はこれからが本番であった。

2009年4月、私は早すぎる職場復帰をした。
頭が働かない、集中出来ない、体 がだるく思うように動かない・・・。
感情がもどらない。人がしんどい。

落胆と失望以外に私には残っていなかった。
そして再入院となった。この病の しつこさを知ることになった。
初めの入院とは違い再発してからは改善された感覚もなく
薬が私をコントロールしてた。 治癒することなく2ヶ月で退院した。

しかし私から信仰と自信、感情、生きる目的はすでに奪われていて死を望んで いた。
私の霊をキリストが守っておられたから自殺はしなかったのだと思う。
このまま廃人のように生きてどのように妻を養い生活していくのか
絶望的な日々であった。

全てを注ぎだした妻の心は壊れ始めていた。
主がこの時妻を通して力強く介入された。
ふと妻が慣れない横浜の地で迷いオンヌリ教会に目を留めるように主がされた。

何気なく妻がオンヌリ教会に入ったところお茶を頂いて牧師夫妻と交わったそう である。

妻はこの頃、心に引っかかりがあったそうだ。
自分の信仰ではなくいつも誰かの強い信仰に頼って奇跡を待っていることに
気づいたそうだ。しかし日々の疲労から新しい学びをする気力はなかったそうだ。

迷い込んだこの教会がまさに主と一対一になり、み言葉を黙想するということを
教えていた。妻はこれは今自分がしなくては次の道は開かれないと悟ったそうだ。
この教会には妻を見守り抱 きしめ励ます人はまだいない。
 しかし妻は主が行けといわれる扉を開いたのだと思う。
妻にはそのような大胆さがあることを私は知っている。
愛を受けた主の教会を離れることに妻も苦しんだと思う。
しかし、山中牧師の精神 病患者のためのカウンセリングを妻が受けさせようと強行突破を図った。

25年以上関わった母教会を離れることに私は耐え難い悲しみに襲われたが、主が私を突き飛ばしてオンヌリに入れられたとしか言いようがない。
そして山中牧師とのカウンセリングは始まった。2009年6月のことである。

私はまだ集中することも、相手を信じることも出来ない状態であった。
 山中牧師が牧師の立場を横に置き私の友達になることを決心してくれていなかっ たら、
私は今ごろ薬の支配下に死んでいたと思う。私のどんな症状にも態度にも牧師は心を開いてくれていたように思う。

初めの一ヶ月、私は妻の強引さに仕方 なくカウンセリングに通った。  
しかしいつごろからか定かではないが、週に一度のこのカウンセリングが私の手帳に書かれる唯一の生きている証のようになっていった。

カウンセリングが、できない時私はひどい落ち込みを経験した。家では私は一日大半を睡魔に襲われ、ただ横たえるだけで、生きているとは言えない生活だったからだ。

ある時、牧師は私のために自分の過去の弱さまた苦しみをさらけ出して、分かち 合ってくれた。 この時発病して1年ぶりに涙がでた。
牧師の経験した人生の波に心が震えた。
私が人としてやっと感情を取り戻した最初のきっかけであった。

毎回カウンセリ ングの始まりと終わりに祈りがあった。
 聖書の言葉ももちろんあった。
牧師の目線も立場もとらないこのカウンセリングは、
み言葉を注ぐ友人としての覚悟を牧師が決めて私に接してくれた。

後から妻から聞いたことに、私は山中牧師の心の深さ愛情に涙した。
この病は一 番近い家族の心を傷つけることが大いにある。
妻の疲労と寂しさ不安が積み重なり、私たちは破壊的な喧嘩を繰り返していた。

ある土曜日の夜12時過ぎ頃、まみは「もう疲れた」と言って裸足で、部屋から飛び出した。8階から飛び降りようとしていた。
さすがに鬱病の私もこの状況は、なんとかしないといけないと思い、なんとか私の全体重をかけて彼女を引っ張り思いとどまらせた。
マンションの住人は、聞こえているんだろうけど、
誰も部屋から出てこなかったのを覚えている。

そんな時、山中牧師は妻に個人的 に話された。
「勝浦兄弟の心には、一般的に見受けられる怒りはさほどなくむしろ罪責感が支配 しています。
ご主人が癒されるために麻充姉妹、どうぞこれ以上兄弟を責めないで欲しいので す。
姉妹も辛いでしょうがどうか兄弟の過去を赦してあげて下さい。」
と頭を下げて言われたそうである。

妻はこの時、自分の傲慢さを心から悔いて自分の罪に盲目になっていたことを優しく諭してくれた牧師に今に至っても感謝していると言っている。
誰がこのような廃人のために頭を下げて頼んでくれるだろうか?

私はカウンセリングを通して キリストを見た。キリストの愛を感じた。
キリストの赦しを見た。キリストの絶 えることのない私への愛を知った。
全てを失った私が、今私は富んでいると言えるのはこのカウンセリングで、
キリストと真正面から引き合わせてもらったからだ。
キリストの十字架の赦しは、私の闇を蹴り飛ばした。

私の主治医(ハーバード大卒の精神科医)
日本全国でも有名な精神科医であるが、彼は私達夫婦と共通の知人に言ったそうである。

信仰の力としか言いようがない」と。信仰勝ちである。
この信仰勝ちを語るに あたり、私はもうひとつここに証しを入れたいと思う。
それは私達夫婦、とりわけ妻の人生を変えたキリストの園インターナショナル祈りの家、小谷院長との出会いである。

私がオンヌリ教会にてカウンセリングを受け始めた頃、
妻に主がまた扉を開いておられた。妻は祈りが出来ない、
心注ぐ祈りが出来ないともがいていた。私をここまで引っ張ってきた妻は、私以上にカウンセリングが必要であった。
私は妻とまだ会話が出 来るほどに回復していなかったため
妻は誰かとの会話を必要としていた。

しかし、礼拝では私の横につき、終わると私の体力気力が萎えてしまうので、妻 が付き添って帰宅していた。妻が他の婦人達と交わる機会はなかったのである。
今にして思えば、どれほど淋しい教会生活かと、妻に対し申し訳なく思う。

そんな妻に、主が霊の解放をもたらす先生との出会いをプレゼントされた。
大声で泣き、主に訴え、感謝している妻を祈祷院で見たとき、私はむしろ怖かった。

しかし、妻が心の傷を祈祷院で癒して頂いてから祈りの力があきらかに変わっていた。
私も時に聖会に参加したが、霊がまだ塞がっていて、当初はただの騒音に思え た。

ここには小谷院長をはじめ金ピョンホ牧師、ヨムソマン牧師、ペクチュンヒョン牧師が韓国から招かれ聖会が定期的に持たれていた。

毎回、涙をもって私に手を置き、私の懐疑的な態度や病からくるまどろみにも、
キリストの十字架をとおして癒しと勝利を宣言してくれていた。
熱い祈り、失神しそうな天を揺るがす祈り、聖霊の圧倒的な臨在、院長との個人的な交わり、これら全てが私達夫婦 を攻撃していた悪魔の土台を破壊していたことを、
私は最近気づいた。

預言が私達に何度となく語られた。
闘病中の私にはあまりに現実とかけ離れた 主の言葉を受け入れることが難しかった。
しかしその言葉は希望でもあった。
祈祷院は信徒が癒され、与えられた賜物そして使命を再確認させる聖所である。

妻はここで新しい人に変えられていった。
私はその目撃者である。
そして今では 私は妻を二番手とするほどに強い祈りの霊が
私にも注がれ私自身も変革を経験した。

人は私に問う。「癒されるきっかけはなんだったのか」と。わたしは知っている。
主の癒しのタイミングは私が生まれる前から決まっていたことを。
私のこの 病は私が主に用いられるために用意された訓練であり私の過去の罪からではないということを。

勿論、一年半の闘病生活で多くの罪の悔い改めをしたのは言うまでもない。キリストの愛に触れれば悔い改めが次について来た。何か 1つのきっかけが奇跡を生むのではない。
主が用意された全ての計画を知らず知らずに進んでいく時必ず、主は約束を守られるのである。

私はまだ短い試練で あったことを感謝する。
今なお戦いの中にある兄弟姉妹にも私は主が必ず約束を果たされると信じている。

私は2010年3月にリハビリ復帰をし、4月に完全復帰を果たした。
毎朝、主が私に語りかけられる。
次々にアイディアが与えられ、私はキリストと共に生きる道がこんなにも満ち足りたものなのかと驚いている。

私は高校の教諭であり、私が病で学んだ忍耐・希 望・赦しを、私なりに職場で返していこうと努めている。

私はキリストのために生きて、そして死にたい。
この主にある訓練が私に言わせた言葉である。

生きることはキリスト。死ぬこともキリストのため。この告白が、私の人生が終わる日まで真実であって欲しいと思う。
この証しが、人の心にチャレンジや希望を与えるなら私は最高に幸せである。
(2022年1月13日加筆)

私は、新宿シャローム教会のレーマ聖書学院を卒業し、主に献身を約束したものです。

稲福エルマ牧師は、私の尊敬する恩師です。同期にスリヤ佐野先生がいます。

しかし、卒業後、何か燃え尽き、名ばかりのクリスチャン生活でした。

そんな私を、主は、また立ち上がらせてくださいました。


2015年3月31日、30年勤めた横浜の公立高校を、早期退職し、フィリピン宣教に身を捧げました。


セブとダバオにJesus is Alive Mission Church を開拓し、今は育てた弟子が牧会しています。


主イエス様が共におられ、多くの実を得ることができました。

このユーチューブにビデオで宣教活動を報告しています。

良かったら見てください

https://www.youtube.com/user/webringJesus/videos


Facebook は「Yoshihiko Katsuura 」で私の現在の宣教活動が見られます。


メルアド jesus2nd@icloud.com


  

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