ガラテヤ2 16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。 18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。 19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。 20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 21 私は神の恵みを無にはしません。 もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」 ガラテヤ3 13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。 なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。 14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、 私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。 20 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一者です。 21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与え...